右端がこの会議の主役であるオメルチェンコ氏である。ボルゴグラード大学の学部長で、哲学の世界がもっとも注目すべき人物の一人であろう。(見事な表情ですねぇ。)
 彼は実に精力的に活動し、人間の問題を現代の哲学の問題として把握しなおす課題に取り組んでいる。
 尊敬すべき学者である。国際会議開催のために果たした彼の仕事の大きさは計り知れないというのが僕の認識だ。
 ところで、1999年からユネスコは松浦晃一郎氏を事務局長にして、数多くの困難に立ち向かいつつ、多彩な活動を展開している。松浦さんの仕事ぶりをよく知っているわけではないが、日本人の教養と世界市民的知性の高さを示してくれていることは間違いないと思われ、とても有り難い。というのも、オメルチェンコさんのロシアで開く国際会議への後援依頼に対して、松浦氏は丁寧な英文のお便りと共に承諾の旨を伝えて下さったからだ。偏見なし。実に見識が高い!後援決定直後、ニコライ(オメルチェンコ)は僕にメールで松浦さんのことにも触れてその朗報を伝えてくれた。
 私たちは、少しでもオメルチェンコ氏や松浦さんに学ばなければならないだろう・・・。




 翌日この2人(左・ナージャ、右・アンナ)が僕を街に案内してくれた。僕の行きたいところは「パノラマ」、と告げた。スターリングラードバトルを記念した立派な博物館で、ここと《ママエフの丘》を訪れないのは考えられぬほどの愚行である。
 昼食は?と聞かれたから、ここぞとばかり伝統的なロシアの料理!と答えた。彼女らが連れてきてくれたのが「狩人」の名のレストランだった。非常に美味しかった!手前はボルシチ。サラダとかイクラの料理とか頂いた。彼女らにはシャンペンを取ってあげた。
 この後でCD屋に行った時、流れていたポップスにアンナが目を輝かす。今一番若者に人気のある歌手だそうだから、それを手に入れた。ジーマ・ビランという今26歳くらいの男性歌手。一人で店を見てたって先ず手に入れることは出来ないと思う。お蔭で、感知できない音楽等の情報を、ネットなどで探って知ろうという気になった。

ホテル下のイタリアレストランで、左にイタリアのロレンツォ。右端はヨアーオ。奥側の男性はフランスのコリン。


 全日程終了の翌日の朝、大学院生たちがロレンツォを街案内した。昼食のみ、僕は付き合った。
 彼女らの美貌については、フランス人も感嘆するくらい。無論それだけではないけれど。男子はどちらかと言えばTシャツにジーンズが一般的。


                                                                     
大学内での昼食風景。こちらはフランス語圏だ。メキシコのヨランダ(ピンクの服)まで加わっているのは流石と言うべきか。


Hellow, Mr. Nagano!
We live in Orenburg., South on the Ural‐river, the nature board between
Asia and Europe. This year in our university have a place the Days of Japan
Culture. The history and culture of your country are very interesting for
us. We are glad to say you about it.
Thanks for interesting and the highest professional presentation.Hope the
next meetings, sorry for mistakes in this text.

リーマさんとジェーンさん。オーレンブルクの美しい絵葉書の裏に綴った上の英文を渡してくれた。自分たちは英語はよくできない、とはにかんだ。後で彼女らの席に行って撮った写真が左。うーん、オーレンブルクについての知識は皆無。未だ世界を知らず。恥ずかしいな、これはやっぱり。
彼女らが最後に触れたテキストとは、今回の会議のために用意された立派な装丁の四巻本のことで、外国人と主要メンバーの論文は巻1に掲載されている。ところが僕のはないということを残念がってくれたのだ。
事情は簡単。余りに多忙な毎日を日本で過ごし、集中して論文を書くことが出来なかった。本当は半年位前に提出する。しかし僕はタイトルすら今年の2月頃に出すような具合だった。だから、会議のプログラムには間に合っているが、論文掲載などは到底不可能。プレゼンテーションを聞いてくれたロシアの人々と、相当数の外国人から、帰ったらメールで送ってくれとの親切な依頼を頂戴し有り難く思った。では、一体いつ論文を出しのか。実は出発前日の夜である!どう頑張ってもこんなになってしまった。「もう金輪際こんなに追い込まれるのは嫌だ!」と今度こそは心からそう思った。いくら優秀な通訳だって、忙しいのに直前に理解しておけというのは、実に迷惑な話だったろう。
    スベトラーナと      
 まさか彼女に会えるとは思わなかった。
 9年前に僕担当の通訳を務めてくれた。
 同時通訳席にスベトラーナが座っているのを知ったのは、イヤホンから流れる彼女の声であった。非常に柔らかで耳障りのいい英語。いつしか、あれ?と思って、後方を伺った。遠目だが似た感じの通訳がいるようだった。
 ランチタイムに外国人のためのルーム(美味しいコニャックやワインもいただける)に彼女が座っていた。呼びかけると、「覚えてくれていて嬉しい。」と立ち上がった。当時、来年博士号を取ります、と言っていたから、「博士号は取ったの?」と聞いてみた。「そんなことも覚えていてくれたんですか?取りました。」との返答。学会の通訳は並大抵の知識では務まらない。9年前、僕の論文を露語に翻訳してくれたのも彼女だし、お蔭で少しは名が知られているらしい。例えば、隣に座った人が僕の名を呼んで挨拶する。どうして僕の名をと聞いたら、オメルチェンコ(主催者代表で学部長)が英語で、あなたの論文を読んでいるからだ、と説明した。
 スベトラーナさんには、団扇に筆ペンで書いた詩と日本酒を贈ったが、最終日、当時の感謝の印にと、愛用のシャープペン(仏製)も手渡すことが出来、本当に満足した。


 会議の合間にテレビの取材があった。
 日本からボルゴグラードの会議に参加する理由を問われた。
 ここはやはり大戦と平和について話すのが一番であろう。
 だから、ボルゴグラードが広島と姉妹都市であることに触れ、第二次世界大戦のターニングポイントとなったスターリングラード攻防戦の世界史的都市であることから、かねてより強い関心と敬意を抱いていたということをお話した。
 左の赤い服の女性がインタビュアー。右の女性がTV局の通訳者である。私ではなくて、インタビュアーの方を向いて話してくださいとは通訳者の弁。それはそうですね。


            
テレビ局の取材に応じる。 
      開会式で挨拶する
 

前日の夜、主催者のお招きで外人参加者との会食会があった。宴たけなわ、突然ニコライ(オメルチェンコ氏)から、明朝の開会式で、会議の主題に触れた挨拶をしてくれないかと頼まれた。
何とか考えて臨んだのだが、一段上の右写真にあるように直前まで原稿に手を入れていた。それにしては案外の好評。休憩時間から最後の日まで、とても印象に残ったという声を聞くことが出来た。あり難い。挨拶は二つの部分で構成した。前者はロシアの文学と思想が日本に与えたもの。二葉亭は無論だが、特に蘆花に代表される人道主義的思想の意義をお話しした。ヤースナヤ・ポリャーナにトルストイ翁を訪ねたことにも触れた。そして、7〜8人のロシア人の名前を挙げて、明治を生きた我々の先輩たちが摂取しようとした文豪や思想家への感謝とした。後者については、「現代の哲学概念における人間」というテーマを、人間知性とか知識人のあり方というアングルで意義付けておいた。女性通訳者が見事で、ロシア人に評判がよかったのもそのせいではあるまいか。
上は、開始前の様子だが、女性が多いことに気づく。手前側はほとんどロシア外の「外人」たち。白い服の女性は仏語の通訳者で、この辺りでは仏語が飛び交っていた。(ちなみに日本の哲学会は圧倒的に男性が目立つ。韓国も中国も同様だろう。)
開会 会議初日午前11時頃。議長と代表者席の前列右に座った。傍聴席左側には、同時通訳がいる。英仏語で各3人づつの配置と見た。



    【下の写真・・議長、代表者席で】
左はローマニアのヴイオレル。真ん中はロシア科学アカデミーのイーゴル。
ヴィオレルと初対面の挨拶をした時、ローマニアに来たことがあるかと聞くから、一度ある、友だちもいるよ、と答えた。すると「それは誰だ」と聞いてきた。僕は一介の詩人として訪れたので、ノーベル賞候補になった親しい友人の名を出した。「何だって?彼は私の親友だ。」ちょっとここで待て、と言うや否や、奥さん(彼女も哲学教授)の携帯を持ってきて、電話がつながったよ、と僕に携帯を寄こした。「アキ、しばらく。いつローマニアに来るんだ!」と電話の向こうで詩人の友達が叫んでいる。不思議な縁だ。こうしたことがあって、ヴィオレル夫妻とは特に懇意になった。
 注:ローマニア(ルーマニアだが、どう聞いたってローマニア。こう書けばラテン系のイメージがはっきり意識されるだろう。)



ボルゴグラード大学正面を後ろに(会議初日朝)

  ポルトガル、ヨルダンの友人たちと
 ホテルから車で20分。会議初日の午前10時ごろ、ボルゴグラード大学に到着した。左から、ヨアーオ氏(カソリックポルトガル大学)、世話役の大学院生、ディアブ氏(テフィラ技術大学・副学長、ヨルダン)。
 国際会議も色々だが、この位の規模が僕は好きだ。親しく交わることができることが何より。
 ヨアーオとディアブの2人は、カフェでビールなど飲んで涼んでいた時、河畔に出ようという皆の誘いを振り切って議論していた。ヨアーオいわく「民主主義の問題なんだ。これはとても大切な議論でね。」と僕に言った。その通り。リラックスして互いの国情を踏まえながらデモクラシーの問題を語りあることができるというのは、何と素晴しいことだろう。
 会議に出るのはちょっとだけで、後は観光という習慣に慣れた大学人は結構多い。しかし、「仕事」が済んだら即モスクワその他に抜け出すわけではなく、この学会ではみんな最後まで議論と交流に加わった。ま、当たり前といえば当たり前のことなのだが。
ロシアの国民楽派グリンカを記念する博物館内で撮った。正面の部屋は20世紀を代表するヴァイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフの書斎の一部である。手前の展示テーブルに以下の一文があって、感激した。1962年1月12日、カザルスが彼にあてた手紙である。

Dear Mr. Oistrak,
Thank you so much for your very kind telegram for my birthday. I am deeply grateful.
May we meet soon again, and may I have the pleasure of making music with you again.
With all best wishes and admiration.
Yours,
Publo Casals


 
モスクワ:グリンカ記念博物館にてモスクワ:トレチャコフ美術館(旧館)で
トレチャコフ美術館(旧館)である。今回5時間近くかけて見廻った。それでも足りなかった。イコンや現代絵画にはほとんど触れる時間がなかった。
ロシア芸術のみを対象にした美術館ということで、ともすれば軽視する人があるかも知れない。ピカソもセザンヌもないのだから。かくいう自分がその一人だった。レーピンの偉大さは、日本でも、サンクトペテルブルクでも見て知っていたが、ロシア美術がまさかこれほど高い技術と思想に支えられた世界であったとは!と心底驚嘆した。今回の収穫は、その文化的価値を備えたロシアの絵画が、あのスターリン時代をどう生きてきたか、という問題に対する明確なヴィジョンが生まれたことだ。
それにしてもフラヴィツキーの《侯爵令嬢タラカーノヴァ》とか、プーキレフの《不釣合いな結婚》など、絵画の物語性という伝統的な主題を極めて高い表現力で示した画家たちの何という洞察力、思想的研鑽!脱帽する。
    モスクワ:トレチャクフ美術館(旧館)で
モスクワのシュレニチェボU空港からタクシーで30分程度。ペトロブスカ・ラズモフスカヤ駅(地下鉄9番ライン)からは徒歩10分。宿泊することになった三ツ星のザリヤホテルは写真の右手側。閑静な環境で、妥当なホテル。5月24日だが、極めて暑い。ロシアは北、モスクワは北海道より北、という意識がこの暑さへの警戒を怠らせた。日中の散歩は避けたい。恐らく34度前後かと思われた。この気候状態は結局ロシア滞在中は最後まで変わらずだった。
   
(日没は10時半過ぎ、朝は4時頃から明るくなる)
    モスクワ:ザリヤホテル付近で


ロシアあるばむ

2007年5月23日、日本を立ってロシアに向かった。ヴォルゴグラードで開催される第4回国際哲学会(ユネスコ後援)に出席するためだ。
直行便はないのでモスクワへ出てから、国内線の飛行機で約2時間弱カスピ海方面に飛ぶ。学会は28日〜31日で、世界初の「領域創生知識論」を論じ、
ご評価をいただいた。この議論は僕の日頃の教育活動を反映するが、こうした理論的裏づけをもって、優れた知識、教養および行動力を備えた若者を
しかと育て、世に多く出したいものだ。

















































































































































 





































































































     










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