日本哲学会総会の懇親会にて(2004年5月)

   哲学者の友人たちと
   上
     (左) 島崎隆さん:一橋大学教授
     (右) 岩佐茂さん:一橋大学教授
   下
     (右) 古茂田宏さん:一橋大学教授
     (中) 岩佐茂さん:一橋大学教授
     

2004年5月22日 
日本哲学会総会(開催南山大学・名古屋)懇親会場にて

『日本哲学会』……日本の哲学研究の発展と、研究者間の交流を活発化することを目的とする全国規模の学会。
突然ですが・・・。昭和23(1948)年です。横浜は3年前の5月29日の大空襲で、すっかり焼け出されてしまって、人々は本当に掘っ立て小屋から、生活を始めなければならなかった時代でありました。湘南電車(現京浜急行)の黄金町駅は、周囲の建物が疎開で取払われていた。そこに多くの地域住民が逃げこんだところへ列車が到着、空襲をさけるために停車して乗客を降ろした。付近では戦闘機が低空で機銃掃射を繰り返し、逃げ惑う人々がガードの下や駅構内に吸いこまれるように身を隠した。そこへ遥か天空から焼夷弾が降り注ぐ。想定されたような小規模の疎開や防火演習では、まるで役にたたなかった。久保山から阪東橋にかけ、はるか広範囲に渡って現出した炎熱地獄に、人々は逃げ場を失った。(萩野谷敏明氏ホームページより)
     横浜浅間町

母によれば、僕は病後で、弱っていたとか。右が父、左は伯父。女の子は従姉です。伯母が撮ってくれたと思います。何故か記憶の底にある写真です。伯母の笑顔まで思い出されます。それは多分、もう少し大きくなった時、同じようなシチュエーションで伯母が写真を撮ってくれたことがあり、その時、この写真の時のことをしっかり覚えていた僕は、母にだっこしてくれとせがんで抱いてもらって、赤ん坊の時の記憶通りだと満足したことがある(しかしその写真の存在は不明)からではないか、と思います。うーん、記憶の底とは実に不可思議な力を持つものですねぇ・・・。 
2004年10月、母と妹を連れて蓼科・諏訪へドライブしてきました。この1ヶ月半後、母は急に心臓の病に倒れました。カテーテルの処置によって、一命はとりとめましたが、大きな手術はできないとのことで、年が明けてから、日常生活にもどりました。この時、思い切ってドライブに出かけたのは本当によかったと思っています。(白樺湖を背景にして.。後方は蓼科山。)
         [左手前]末川清先生(立命館大学名誉教授)   [左 奥]益川敏英先生(京都自由大学学長) 2005年3月5日、オープンカフェ京都自由大学の開校式が、京都で行われた。48人の講師陣のうち、生まれから今も関東在という講師は僕だけのようである。開校記念シンポジウムでは、宇宙物理学者の池内了さん(名古屋大学)が、オープンカフェは、イギリスやスエーデン等で科学者達が盛んに行っている方式だという話をされ、大学理念の実現方法のユニークさが理解できた。記念パーティでは、非常に意欲的な受講生の方々を知った。若い人たちが多かった。早速「宿題」を出したりして、自分のセミナーへのアピールを怠らなかったが、学問は自主性であるという単純な原理にあらためて思い至ったものである。自主性といえば、左の写真は、場所を変えて、京都三条での打ち上げパーティでのもの。・・・ひとたび疑問を持ち、それに取り込もうという気になったら、環境だの条件だの、それがどうであれ、僕らはやります。睡眠時間が4時間でも半年ぐらいはできますからね・・・と話された益川先生(京大名誉教授・ノーベル物理学賞の最右翼といわれる方)のお話は示唆的であった。学問が疑問に発するということ、劣悪であっても環境をものともせずに取り組んでいくというお話には、人の背筋を打つような意思と力がある。末川先生は、色々考えてひらめきをメモして寝ますが、朝起きるといつも全然ダメ、そういうものですね、とおっしゃった。全く同様のことを、ノーベル化学賞の福井憲一先生が書かれていたことを思い出した。このお話から導き出されるのはただ一つ、普段からテーマに集中して考え続ける学問姿勢がいかに大切であるかということに他ならぬ。

ご存知の通り、2008年秋、益川先生はノーベル物理学賞を受賞されました。
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僕のフォトアルバムより