日本が、近代化を果たすに当たって掲げた政策が富国強兵であり、殖産興業であったことは広く知られている。
 そのために、教育が施され、徴兵制が敷かれたこと、あるいは能力主義が採用され、官僚制度(軍も例外ではない)が試験制度に支えられて登場したことなどを考えてみよう。すると、我々が身に付けてきた知識のあり方にも、何らかの形でその影が認められるかも知れないという疑いが生じる。
 つまり、日本人は、受験に代表される試験に慣らされ、そこで問われるものこそ大切な知識であると考えてしまってはいないだろうか?少なくとも、日本の近代史・現代史に学んで、日本人は果たして、民主主義という壮大な理想を担う自主的な思考と能力を真剣に育ててきただろうか? 
 教育を抜いては真の知識形成ができないとすれば、これまでの知識形成にはどういう問題があったのか。「学校知」とか「技術知」などの言葉が使われるけれども、さらに本質を問いかけていく必要がある。
 私たちは、知の閉塞を問い、そのことによって知の活動とその本質を把握すべきなのである。


日本語の論文



21世紀における危機と破局に対する真性活性知の役割
長野芳明 
    
    第一章 活性知とは何か
    第二章 知的営為の本質
         (知の司令ステイト、器械知・人間知、変体活性知・真性活性知等の問題と
          知識の世界観的性質及び愛知的性質)
    第三章 20世紀にみる社会的教訓と学問上の教訓
    第四章 21世紀における危機と破局に対する活性知の役割
    

第一章 活性知とは何か
 知の分析においては、しばしば、知が経験によるものであるか、形式的に成り立つものであるか、あるいはその本質がそのどちらにも属さない点において認められるかどうかが問われる。そして知は直感的な性質あるいはアプリオリな性質を持つものであるかどうかが問われる。加えて、本質や実在や真理との関係を問われることもしばしばである。もちろん、私達は、知の社会的性格や歴史的性格、知と認識の関係、あるいは根源知(シェリング)、暗黙知(M.ポラニー)、技術知、実践知、学校知等々、知識に関する様々な問題を提出して論議することができる。
 私が捉える知は、それらの問題と関わらないわけではないのだが、私は、知を人間の活動として、特に頭脳の活動を中心に据えて考察するのである。即ち、力動的で可能性の豊かな知の解明は、人間の最も重要な基本的あり方に結びつき、人間の頭脳活動や身体活動のメカニズムとの強い関わりにおいて為される必要があるということなのである。これから、その意味での知、特に活性知と私が呼ぶ知の本質と働きを追ってみよう。
 一般に、感覚器官(sense organ )のすべては、身体的世界の最先端において、それらが接する世界に開放されている。そのことによって生命体は、自己の生存に関わる最も基本的な情報を得るのである。従って、感覚器官と世界(環境)の接触は、人間の知識を考察する上において、極めて重要な基礎的テーマであると考えなければならない。特に、皮膚的感覚は、まさしく生命の維持あるいは生死にかかわるものとして、あらゆる感覚器官の最重要な地位を占めている。例えば経験論者たちは、快・不快の問題を論じたが、感情を生じさせる基底にあたる部分に皮膚感覚があることを抑えておくことは、身体と心の関係を解く上でも、生命の本質を探る上でも決して軽視することのできない重要なポイントである。(注1)
 人間に限らず、不快に対しては、逃れるか我慢するか闘うか、受け入れるか慣れるか変革するか、それらの選択を迫られる。人間は、身体的な面だけでなく、精神的な面においても、全体として強く逞しく成長しなければならない生物である。従って、我々は、それらの選択を適切に行って成長しなければならない。もちろん人間も生物として自らの快に向かおうとするから、不快に対しては適切な選択を行ないたい。であるから、知の問題を探るとき、私達が知と人間の感覚的活動や感情との関わりを捉えようとすることは、知を人間の活動として把握する第一歩となるのである。
 そこで、先ず感覚材(sense datum )が捉える外部の情報から始めよう。それが知的関連の情報である場合、それらがいかに人間の内部に取り入れられるかを考察するのは、大変興味深い。
 いかなる情報も感覚器官を通じて取りいれられる。例えば文字情報において、視覚の不自由な人は、聴覚や触覚を働かせ、音声や点字によってその情報を得ることが出来る。感覚器官を通じて得られる信号は、抵抗のないものか、警戒したり、拒否したり、積極的に受け入れたいものか等の判断を、脳に行なわせる。やけどをするような熱いやかんに触ることは誰も行なわないが、熱いコーヒーは飲む。ガスの臭いは我々に機敏な行動を促すが、ハーブの香りは我々を非常に落ち着かせる。
 例えばここにトルストイのアンナカレーニナがある。トルストイは誰か。作家だ。どこの、いつの? こうした問いに対する解答は、彼の作品を読もうとする人の動機の一部を担っているだろう。そして彼の名を聞いただけで、人はある感情を抱くであろう。もし、何も感じないとすれば、それは感じるほどの知識や経験がないということなのである。このようなありふれた事例から、私達は知識と感情に関連があるということを認め、考察を深めなければならない。
 情報は一つの信号として送られどこへ行くのか。脳である。では脳でどうなるのか。ここでは、言語情報を取り上げて考えてみる。
 ソシュール(Ferdinand de Saussure)によって、記号(signe)がシニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifie)で構成されることが指摘されたが、これは元よりストア派の記号論(semiology)をアウグスティヌスがまとめ、スコラ哲学者によって受け継がれてきた見方、即ち記号(signum)を知覚相であるシグナーンス(signans)や了解相であるシグナートゥム(signatum)に分ける記号論を伝統的に受けていると考えてよい。ヤコブソン(Roman Jakobson)は、いかなる言語分析も、また一般にいかなる記号分析も、そして分解された複雑な記号的単位の究極のものでさえも二重であり、この双方をともに含んでいなければならないしている。(注)これを知識の問題と関連付けて捉え直してみよう。
 人間の脳の内部では、記号ないし単語や言語が、人間の感性や感情となんらかの関係を保っている。あるいは、それらは人間にとっては、その人なりのイメージを伴って存在する。感性義相(sensitive significativeness)と呼ぶこのイメージは、感性で受けられた感情面が記号に付与されていることを示すのである。それらが知的性質を持つ知識であれば、それに伴うイメージは人によって大変複雑で奥行きのあるものになっており、同時に他の知識要素とつながる契機を有していると考えられる。
 知識は、脳の特別な働きの作用の結果として成立すると考えられよう。その作用を考えてみるに、信号として送られてくる知識要素は、知識に感性義相を与える非言語的直態(tacit nonlinguistic fugures)を通過し、そのことによって、受け取られたものは先ず基体レベルでの判定を受けるのである。これは生物的情報処理過程であるが、もう少し理解を進めよう。即ち知識は精神の働きの中で機能的に存在すると考えられるから、非言語的直態も一つの機能と見られる。この機能には複雑かつ多様な完成が発達しており、それは経験や知識に結びついている。しかも言語に結びつくだけでなく、広く様々なイメージと記憶に結びつくと考えてよい。例えば音楽的イメージや絵画的イメージ、光景の記憶なども、この非言語的直態の活動を必要とし、保持されるのである。
 非言語的直態の役割を確認したところで、新たな知識要素が信号として送られてくる場合を検討しよう。一般に新たな知識要素は、何の形式も規制もなしにめちゃめちゃに入りこんできて勝手に既存の知的要素にぶつかる乱暴者ではないから、適切な知的要素を取り出すために、出合いの場(機能)を持つ必要がある。その意味で、私は、非言語的直態の表層部にあって信号を媒介する層(figure)を認め、ボヤーン(buoyant)と呼んでその役割を示すことにしている。
 例えば、犬が自分の名前を呼ばれたり、指示を与えられたりしてそれに反応する場合と、人間とを比べてみれば、言語が果たす意義と機能は、人間においてずっと複雑であることは言うまでもない。しかし、人間においても、言語の役割や機能が、実際上人によって大変な相違を持ったものとしてあるということは認めざるを得ない。その人間の職業や専門による相違とは別に、特に考慮すべきことは、ボヤーンが枯れた状態であるか、活き活きとした励起状態(generation)にあるかどうかという問題である。即ち、非言語的直態の内容が豊かであり、若々しければ、ボヤーンも励起しており、非言語的直態から適切な連鎖を導いてくることができるという点に問題がある。例えば、ボヤーンの枯れた状態では、非常に貧しい感性義相を向かい合わせるしかなく、その連鎖性も途切れたものになって、他の知識要素に向かい合う力をほとんど得ることがない。非言語的直態が貧しいものになっているとも言えるだろう。
 次に進もう。音と意味の双方で人間に受けとめられ、活用される言語記号に感性義相が与えられると、それは会憶(co-generative figure)として残される。会憶は、感性義相の他に、事実の反映としての要素を持って知識化する。従って「反映論」を知識の問題で論じる場合には、知識が会憶状態にあって、イメージ的な感性義相と言語的記号が合体されていることを考慮しなければならない。ところで、現代の脳生理学では、感性義相は右脳、言語的記号は左脳で扱われるということが判明している。脳生理学によって得られたこの成果は、私の議論に対する、科学的、生理学的なヒントと根拠を与えているのである。
 会憶状態の優れた知識は活性化(generate)し、沢山の他の知識要素と複雑なネット的連鎖を保って機能的に存在する。それを活性知(generative knowledge)というのである。反対に、他の知識要素と余り結び付けないか、特定のものにしか反応を示さない知識もある。励起していないこれらの知を閉塞知(ungenerative blocked knowledge)という。
 人間は閉塞知を好まないが、強制されたり、試験に代表されるように、それを取り入れるべきある目的を与えられると、閉塞した知識を取り入れてしまう。その事情を考慮すると、知識には外的動機で取り入れられる側面のあることも見落とせない。例えば、平方根の数値を100桁まで覚えた者があるとしよう。彼(彼女)がもしそれを否応無しに覚えさせられ、しかも何の報酬も得られないとしたら、この記憶は脳への大いなる負担でしかない。反対に、それが自分の記憶力への試しや自信として自主的に記憶され、しかもそれを周囲の人々が感心してくれるとなったら、その記憶情報は快感を伴っているから脳への負担にはならないであろう。もちろんこの種の記憶情報は、一つの数学上の約束や法則の中で活用される契機を持っている。しかし、平方根という語の意義がつかまれていなければそこには限界があってその有効性は乏しいのである。従って、平方根という語を知識としていかに収めているかが問題である。もちろんそこには個々の人物によって理解の程度差があり、他にも微妙な違いが認められることがあるであろう。つまり、平方のイメージを持ち、その上でかつ平方根の意味を理解しているかどうか、あるいは又、古代数学史上の知識の対応能力があるかどうかというようにである。従って、強制的に覚えさせられた結果として、関連する知識要素や知識系列、知識体系に強い結びつきを持てなくなっている知識は、まさに閉塞知として脳内に留まるわけなのである。
 ここで私は、知識が閉塞知になるか活性知になるかの重要な分かれ道として、疑問・問いかけという契機が生じ、しかもそれが活かされるかどうかという問題の重要性に着目しよう。
 疑問や問いかけは、まさに非言語的直態を揺さぶり、ボヤーンを十分に発揚させて、その知識要素やその言わんとするところを捉えようとする。別の面から言えば、若々しい非言語的直態と活性化したボヤーンを有した人間は、疑問や問いかけを行なって、感性義相の満足を得ようとするのである。その過程で会憶が対応し、活性化した思考活動が展開される。教科書のように、外から疑問を出してあげることも必要である。しかし、内側において反応してこなければ、それは単なる答え探しで終わるしかない。
疑問や問いかけは、単純に単発的な知的要素への働きかけではない。活性知は、新たな知を迎えるために、疑問や問いかけの仕方で、その知の要素が属すべき種別判定を行なうと同時に、本来、既に獲得された別の知識を論理的に構成された形でその知の要素に向かわせ、それを適切に導いてくれるのである。こうして疑問や問いかけは、知識が真の活力を与えられ、豊かな内容を得て獲得されるという意味で、非常に重要な役割を果たしているのである。従って、注入式教育が人間の知的主体性を尊重しない行為であることは明きらかであり、この種の教育が若者の知的主体性を奪う元凶になることも明らかであると言えよう。
 ところで、閉塞知で固められた頭は、知的活性化が行なわれにくいため、疑問や問いかけが苦手である。そして重い症状になると、活性知を受け付けない。悪いことに閉塞していないと受け入れられなくなり、終いには知識そのものを忌避することにもなるのである。学校を出たら本を読まず、考えることをしない人間は、多かれ少なかれ、閉塞知の犠牲者になっていると見ることができる。
 これらの事情から、活性知が、人間の創造的可能性を伸ばし、物事を深く広く知る根拠になることが予想される。閉塞知は、非常に狭い領域を作ってくるから、社会的に利用されると大変危険であると言える。この問題を考えるについては、知の営為の本質を探ってみなければなるまい。
 
 (注1)本論では身体と心、生命の本質に関係する皮膚感覚の意義について詳しく検討することはできない。しかし、次の具体的な事実は、これからの人間関係を考えたり、現代人の病理を解決していく上でも看過できない基礎的認識を与えることだろう。先ず、我々は、空気に敏感である。特に臭い、気温、温度に対する反応は、生存を左右するという意味で、最も重要な、第一級の感覚作用といってよい。この感覚は、空気や空間の知覚以外にも拡張され、判別機能が複雑に発展する。しかし、それは判別機能に留まらず、内部知覚において脳や身体全体に快、不快の感情を与える形で発展してきた。一般に、生物は親との接触や同類との接触において自己の生存の基盤を知り、それを確保する本能を持っている。人間の場合、そのことによって独自の心的世界が生じ、心の成長の基礎が与えられるのである。私は、一家中が苦しむ(母親は苦悩して自殺)十四歳の節食障害(拒食症から過食症へ向かった)の少女を看てきたが、その子が意識撹乱で暴れ出し気を失った時に、同じ年の私の娘と一緒に彼女の腕や手を一時間位さすり続けたことがある。この私たちの行為は、極めて自然で初歩的な思いやりや同感を示す愛情行為として行なわれたため、彼女の身体的知覚をもって無言のうちに少女に精神的な安らぎを与えることになった。だから、目覚めたときの少女は、実に穏やかな表情をしてこちらを見た。私の見るところ、彼女にとって不幸だったことは、そのような行為を期待できない両親に育てられてきたことである。敏感な少女に、家庭や学校や社会生活上の様々な不幸な事情が重なった結果、少女は心の安定を失ってしまった。更に悪い事情がある。この少女の場合、精神鑑定やカウンセリング、サイコセラピストの治療及び強制的入院生活が、結局人間的接触という最も肝腎な課題に応える点で、重大な欠陥を持つものであったということである。心を問題にしながら、心に触れない対応に終始して、その子の精神を切り刻んでしまったのである。その意味で、この種の精神的トラブルにおいては、科学は、やはり人間を大切にする愛情に発しない限り、満足な結果を生み出すことはないということが分かる。その愛情の基礎に、皮膚感覚が存在するということは、この事例がはっきり示している。皮膚科では、精神的なストレスが皮膚の様々なトラブルに顕れることを問題にするのである。皮膚のトラブルのみならず、人間そのもののトラブルに陥らせてはならないのである。


第二章 知的営為の本質 
(知識の世界観的性質及び愛知的性質)

   
知の司令ステイト、器械知・人間知、変体活性知・真性活性知等の問題

1966年の著書で、P.B.コプニンは、知識は特に人類の経験によって媒介されていると指摘し、いかなる知識も直接的なものと媒介されたものとの統一であると書いた。又、感覚と知覚は、知識の要素的細胞であるところの判断の形式をとるときにはじめて、知識になるとも指摘している(П.В.Копнин:Введение в марксистскую гносеологию, Киев, 1966 :Y−3) 。後者の問題は、別の機会に論ずるとして、前者からは、媒介された知識が一つの実体を持つ概念として定立する時、その内容は定義の形式によって形どられるにしても、決してそれに尽きるものではないという問題が引き出されよう。何故か。その理由は、知識とはある明確な臨界線によって形どられた完結した個物ではなく、社会的な規約を有するにしても可能態であって、他の知識と論理的形式を中軸に様々なつながり方で結びついて成立してきたものであり、それゆえ、それ自身の中に、新たな知識を産み出す母体としての力や、動機になる力を有するものであるからである。そのことを可能態という語を用いて示してもよいであろう。知識がそれ自身として可能態であるからこそ、個人において、イメージ的働きかけが生まれ、豊かな感性義相を要求してくるのである。従って、閉塞知が反知的な性質を持っていることは疑い得ない。
 ソシュールは、言語記号が概念と聴覚映像を結合した恣意的なものであると考えた。言語記号レベルでの問題としても、概念あるいは翻訳可能な内容を持つシニフィエは、個々人を離れて、歴史社会的な、経験的な、あるいは科学的な内容によって引き出され裏付けられているとは言えないだろうか。それが言語や思考レベルに達すると、知識の問題として、もっと複雑な形の問題になってくることは容易に想像できるであろう。このことを追究するときに先ず考慮の網の中に収めておくべきことは、人間が社会的動物であるというよく知られた事実である。それゆえ、社会関係の基体であり、最も現実的な生の土台である人間関係が、相互のコミュニュケーション活動によって具現されるという問題を考えなければならない。それに関しては既に多くの議論と研究が為されている。それゆえ、私は、知識の問題として次の側面に限って論じることにしよう。
 私は、知識とそれを用いる思考活動は、社会的結びつきを発展させ、外界と自己に対する認識を深める現実の活動によって、その意義を示すという点に注目している。つまり人間が知識を蓄え利用するという意味は、自然や環境や社会や人間のそれぞれに関する知識はもちろん、それぞれの諸関係、諸連関を理解する力をつけ、生存する点に認められるということである。そうでなければ、人間は類人猿からホモサピエンスへと発展してこなかったと言ってよいのである。人間が人間になったという根元的な意味で、人間は誰しも、必ず自己の生存と成長に寄与するエネルギーを、即ち他の人間、社会、仕事、思想、環境、自然等に結びついて生活する強い志向性を持っているのである。従って、それらに寄与する意識も重要であり、その志向性を高めることが、人が人として暮らしを発展させる重要な目的になることは間違いないと言えるのである。もちろん自己に適さないものを排斥するために、知識と思考活動を活用することがあるのは言うまでもない。
 このように考えると、私達は、次のように知識の意味とそのあり方を吟味しなければなるまい。私の知識は何に結びつき、私の何を豊かにしてくれているのかと。又それが、人間的なものであるかどうか、広く人類の幸福に貢献するものであるか否かと。この問いを忘れてしまうと、知識は、文化を担うものではなくなり、類的存在としての性質を失ってしまうのである。人間知ではなくなるのである。場合によっては、極めて一方的で危険な傾向に利用されかねない弱さをもつものになるのである。
 これらの問いに対しては、器械の機能に組み入れられた器械知ではなく、人間が自分の機能の中にとり入れた知識としての人間知を問い、それとの混同を避けておかなければならない。
 この議論を一歩進めよう。人間知には、知や知的活動を支え、それらをコントロールし、運用する役割を果たす知識のレベルが形成されていると考えることはできないだろうか。そしてそれは人間の生存の欲望と深く通じて成立することを考え合わせる必要があるのではないだろうか。私はそのあり方を知の司令ステイトと見なし、知識のより根源的な理解に到達させる必要を感じている。私の理解する知の司令ステイトは、人間の生存が孤立して行なわれるのではなく、愛と温もりという力を得て、他の様々な動力的契機を取り込んでいるものと解釈されてよいであろう。考えてみれば、本能的とはいえ、高等動物における生存の欲望も、初めはしっかり親子の絆で結ばれているのである。親子の絆がなく、放り出された子は育つことができない。人間においては、食料や住まいが与えられようとも、人との精神的関わりが弱ければ、人間らしい感情を育むことはできない。人間が怖いのは、人間が人間でなくなることがあるということである。鬼や下等動物並になることも可能であるのが、人間なのである。だからこそ、知の司令ステイトを私達は問題にしなければならない。倫理学は、その司令ステイトのあり方を長い間問い続けてきたと言うことができるであろう。私はここで、知識論として、人間の認識構造の中でそれを問題にするのである。
 従って私達は、次のように知識の本源的性質を深めることができる。即ち、第一に上記の意味で人間の知識は、一つの必然として、人間と人類の幸福に向かって、広い世界観の中で試されるだけの構造と機能を持っているということである。これを知識の世界観的性質と言っておく。この性質には、人間的な又人類的な幸福への理解と動機が含まれている。第二に、知識は、知の根拠に向かい、自らを基礎付けていくということである。これを知識の愛知的(哲学的)性質と呼んでおこう。論理性、科学性はこの性質を担う重要な柱として理解される。知識の司令ステイトは、これらの要件を本源的な要請として受けとめる場である。従って、私達はこの構造と機能をこそ育て働かせていかなければならない。司令ステイトが極めて偏った命令を出すようになる場合は、もちろんその人間の知の形成と人間形成との関連を問わなければならない。その偏った土台に立ってしか機能しなくなる知は、変体知と呼ぶべき知的障害を被っていると見なせるのであり、これは活性していても許容することのできない知識なのである。同様に発展の芽を閉ざされている閉塞知において、従順にある種の反人間的呼びかけに応える変体化した閉塞知(変体閉塞知)も十分警戒され、それに陥らないようにしなければならない。
 ここにおいて、活性知が、知識の世界観的性質と愛知的性質を持って極めて生産的な活動を行う真性活性知でなければならず、閉塞知のみならず、変体活性知も警戒しなければならないということが明らかになったと思う。
 しかし一番の問題は、知全体を導く指令ステイトの形成である。指令ステイトこそは、人間の誕生からの教育を軸に形作られていくのであって、教育の重要性を決定的にするものであると考えることができる。何故なら、教育が、型通りの図式主義で、暗記主義で、課題主義で、テスト主義でというふうに強制されたものであると、ごく一部の者のみが豊かな知識へ向かうにとどまってしまうからである。そして大多数の人々が、指令ステイトを、知識の探究によって形成すること困難になってしまうからである。そこで誰でも経験があるであろう一つの例を取り上げて、教育の重要な役割について考えることにする。
 小さい子が「何故」を連発して親を困らせることがある。何故という問いは、子どもが人類という類的存在である何よりの証拠であるとは言えないだろうか。不思議に思うその気持ちがまさに真性活性知の母体であって、何故と問うことは、極めて重要な知的ステージであるとは言えないだろうか。それは、平板ではなく、生きるという活力とつながっているのである。その点が指令ステイト形成において第一に肝腎なところであると私は考えている。即ちそれは人間教育の第一位を占めるべき条件である。
 次に重要なことは何か。それは、知識が、人類の長い歴史を背負っており、加えてそれぞれの民族の歴史や伝統を背負ったものであるという点に関わっている。確かに知識の注入主義はよくない結果をもたらす。だからといってその扱いを学習者の自由に任せることで、長い歴史を通じて獲得されてきた知的営みが吸収できるわけはない。知識には知識の、例えば科学という形式と条件を満たす秩序が必要である。論理が必要であり、段階も考慮されなければならない。方法論もその一つであるが、問題は、それらが適切であるかという側面と、学習者の自発的な発想や疑問が活かされ展開されるかという側面の両方にまたがっている。後者に関しては、考えるゆとりときっかけを与えることが肝腎である。型通りの図式主義、暗記主義、課題主義、テスト主義などは、要するにそのゆとりときっかけを与えずに、無理をさせるというだけのことなのである。幾多の例が示すとおり、そのために、多くの人々にとっては、各人が持つ真の能力と可能性を引き出されず、むしろ反対に大いに潰されてきたと考えることができるであろう。
 知識は、指令ステイトの形成とあいまって、会憶された活性知として、その世界観的性質及び愛知的性質を根本にして活かされなければならない。私はこれらの理解を基に、これから先の時代を、人類全体の解放と発展に向けて活動し、生活しなければならないと考えるのである。



第三章 20世紀にみる社会的教訓と学問上の教訓
未定稿
 二十世紀の提起した問題は計り知れないくらい重大な人類史の課題であり、私達はその殆どを解決していない。
 二十世紀の前半はすべて、何と言っても世界大戦の時代であった。その後半も冷戦構造を軸にベトナム戦争をはじめ、主には資本主義社会体制と社会主義社会体制の対決をめぐる対決の時代であったと言ってよいであろう。巨大な資金と軍事力を背景に、周到な世界戦略下にあって、それは思想、民族、宗教等様々な対立の形で出現した。それらはパワーポリティックスを無視しては理解できないし、勢力を持つこともできないと言うことができた。このことを考える時、私は、帝国主義国家建設を使命とした資本主義の二十世紀型展開、社会主義活動の重大な経験、科学と技術の発展とその重大な役割を思い浮かべる。そして、戦争、資本、市場、民族、宗教、環境、グローバリゼーション等々、様々な言葉で二十世紀に起きた事柄を思い浮かべる。
 そのようにして、知識の問題として、私は、フッサールが最後に論及した西欧的知識の危機の問題を考えるのである。周知のように、第一次世界大戦は、フッサールに対して極めて重大な、哲学上のチャレンジを要求し、彼の現象学に大いなる使命と活力を与えた。それがフッサール晩年の大作である「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」で論じられた数々の問題であるのである。(Edmund Husserl:The Crisis of European Sciences and Transcendental Phenomenology)

「ロックが諸学を心的作業と考えて(たとえ彼が、あまりにも個人の心の中で起こることに眼を向けすぎたにしても)、いたるところでその起源の問いを提起したのは確かにもっともなことであり、正しいことであった。なぜなら、作業はなんといっても、それを遂行するはたらきからのみ理解されうるものだからである。(中略)いうまでもなくカントにしても、ロックの心理学に無造作にとりついたわけではなかった。しかし、だからといって、ロックの心理学的、認識論的な問題設定の一般的な点を逸したのは正しかったであろうか。ヒュームから刺激された問題をすべて、さしあたって心理学的な問題としてとらえたのは正しかったであろうか。(中略)学一般は、人間の作業であること、すなわち、それ自身世界のうちに、一般的経験のうちにある人間の作業であること、そしてこの作業は、理論的と呼ばれるある種の精神的形成体に向けられている実践的作業の一種であることが考慮されなければならない。あらゆる実践とひとしく、この作業もまた、行為者自身にも意識されている固有の意味において、あらかじめ与えられている経験の世界へ関係し、また同時にその経験の世界に編み込まれているのである。」(第31節)

今やコンピュータを主道具とするデータ主義、情報利用の時代である。先進諸国においては、確かに科学と技術の力は、社会生活の隅々に至るまで覆ってきている。医療行為一つ見てもその恩恵は計り知れないものがある。遠隔地や非常に便の悪い場所でも、中央と直結して、可能な限り手術を含む有効な治療が可能になってきているのだ。
 しかし、だからといって、フッサールのこの指摘は全く陳腐で古臭いものでしかなくなったであろうか。いや決してそうではない。むしろフッサールは今日に至る変化の過程を予期して、個人と人間を取り戻す学問を建設しようとしたのである。彼の議論の根底に流れる、広い人間学への関心を見失ってはならないと私は考える。フッサールが、彼の現象学において、実証科学、その代表としての物理学的客観主義や自然の数学化、数学化された自然科学を批判したことはよく知られている。彼は、特にヨーロッパ的学問の論理が世界を誤らせる根本的欠陥を持っていると捉えたのである。この時彼は、人間と個人を見失うことなく、むしろこれを知的な学問的問題の基礎において、問題を捉えなおそうとしたのである。我々はこのフッサールの提起を、単なる学派の主張として軽視したり、今日では物理学的客観主義等はとうに克服された古い議論だなどと言って済ますべきではない。その結果として真実重い現実的課題から逃避すべきではない。
 ここでは、ヨーロッパ的学問や知性がどうであるかという問題を立てる必要はない。しかし、知識は人間性と切り離してそれ自体としての独立性を持つとか、あるいは人間性を失うことがあるのかという問いを立てることはできる。それは必ずしも閉塞知に関することだけではなく、活性知に対しても言えることではないだろうかと問うことができる。
 超越的な意味で、知識は、一人一人の人間に対して独立していることは言うまでもない。数学上の知識は、すべての人に開けている。生物学も同じである。すべての学術的知識は、すべての人間が学習することが可能である。市場経済の知識は、会社や企業の経営に欠かすことができないものであるし、コンピューターの技術や知識は、今や多くの人の求めるところとなっている。隣近所に住む人々が与えるその人々の知識もある。病気や事故の時はどうしたらよいかとか、食事のとり方、作り方の知識や技術もある。こう書いてくれば切りがないことであるが、これらの知識すべてを一括して、すべての知識に人間性を問うことができるか、あるいは人間性とは独立的かと問うことは十分可能である。そしてその必要は十分に大きい。
 問題はその知識の根である。知識それ自体は普段からその根と共に立ち出でるのではない。その時その時の必要に左右されていると言ってよいだろう。しかし、それが指令ステイトにつながった活性知であれば、その時その時の必要への対応にも差が生じる。又、知の本質の一つに根源的なものへの直結ではなく、人間の日常生活を支えるために利用されるという役割のあることも考慮しておく必要がある。知識の実用的側面は、learningという言葉で示される。しかしそれとても、改めてある問いかけを行なえば、他の様々な知識や必要と結びついて新たな認識に至ることが可能であって、いわゆる学術的な知識のように、根源的な理解に直接的に結びつくことを必要とし、新たな活性化を行なったり、重要な思考活動を展開する要素になるものではないということに過ぎない。
 そこで、今日のIT(Information Technology)を基軸とする情報化社会における人間が、いかに知識に対応するのかという問題を考える必要が生じる。
 一番問題なのは、情報という網の目がグローバルに広がり、巨大化し細密化する時代にあって、しかも社会や企業や結社や個人の利害がこの関係の中で左右されるという時代が訪れた現代において、膨大化した知識のlearning的側面に人の関心が移るということである。そのために、知識自体がゲーム化し、倫理的価値や責任というものから離れて存在するようになってきているということなのである。
 いやその議論を行なう前に、二十世紀の弱点をもう少し見ておかなければならない。それは、戦争や差別につながる思想と、真の平等を目指すはずの左翼的活動の少なからぬ部分が、独裁や抑圧を主とした非常に権力的な相貌において進められてきたことに対する知識の役割という問題である。
 
 情報技術の利用において急速な変貌を成し遂げてきた日本においては、教育の無力さや混乱を殆どすべての人が感じていると思われる位なのに、知識階級の相当部分は知的充足を満たすことに邁進して止まない。人間的あるいは社会的に困難な問題も、コンピューターのレベルでデータをとって分析し、分類し、図式的な完結性を得てから自信をもって結論を出す。反面、知識の追いかけっこのようなゲームや、おしゃれで気のきいた言葉を弄ぶことに慣れてしまっている。



第四章 21世紀における危機と破局に対する活性知の役割
未定稿
 人類にとって、最大の危機は核戦争であり、文字通り世界の物理的破壊と消滅である。
 しかし、私達が現実問題として、日常的に生活レベルでその扱いと対処に困る重大問題は、情報化社会をいかに生き、いかに望ましい形に導くかということであるということができる。それは特に、情報化社会の最先端を走る日本において、重大な教訓になっている。
 日本において、非常な人間の退廃と荒廃が進んでいることは次の事例を見るだけで十分である。即ち、一億四千万の人口を抱える日本は、八割がたが都会に住むと言われているが、自由権を、例えば言論の自由を、権力による人民の抑圧への歴史的抵抗として、社会の品位を高め、暮らしやすい人間的社会の建設として捉える風潮は極めて弱いものになっている。その思想的背景のなさは、特に1960年代の高度成長期以来、場当たり的な軽薄文化をマスコミの中央に位置させるまでにしてしまった。マスコミは、視聴率を追い、もともと甘い法のぎりぎりまで食い込んで、膨大な電力を日夜消費させているのである。例えば、敗戦記念日や子どもの日に、それに相応しい番組がどれだけ組まれたかを見れば、その文化的水準は一目瞭然と言ってよいだろう。その代わりに流されるものは、赤裸々で露骨な性的画像を含んだ恋愛や性に関するものであったり、他愛もないお喋りやドラマであったり、日常的な情報や食べ道楽、行楽の類の番組である。小学生の眼にも飛び込む形で、俗悪な週刊誌の写真入り広告が電車のいたる所で見られ、新聞に載せられている。映像や話題が低俗化することに伴って、非常に致命的な問題になっているのは、言語の卑俗化と低俗化、そして暴力化の問題である。長い歴史を通じて、言語と言語表現力は、社会生活の中で、生活に密着して習得されてきたわけである。従って、日本においても、一般家庭で育ち、一般的社会生活を送る場合、言語もその生活を反映するものと言うことができた。家庭や学校は、暴力的で卑俗な言語生活を遠ざけることができたのである。ところが、現在、卑俗かつ暴力的な言語と表現は、全国いたるところではばかることなく家庭に入ってきて、若者が汚染状態に陥って思考力を失わされており、大人も知らず知らず麻痺し、毒されてきていることは否定することができない。もちろん三〇年以上前には大手を振って許されることではなかったのであるが、非常な勢いで俗悪下と低俗下が進み、日本はかなりの部分がそれに慣れ切った状態であると言えるのである。広く高度な教育を与えられ、富もある日本人の社会的意識や精神的機能の低下は、非常に重大な社会問題である。
 その典型的な抜き差しならぬ証拠を一つ紹介しなければならない。それは青少年の犯罪傾向である。
 直面する重大事は、コンピュータを軸とする技術通信革命の問題である。社会は、国際的、地球的規模で動くだけではなく、まさに未曾有の変換点に立っているのである。規模だけではない。変化の仕方自体が未曾有なのである。例えば階級闘争による革命という変化を我々はもう何世紀にもわたって経験してきている。又産業革命によって世界が劇的に変化したことを理解している。それに伴う人間と社会の変貌についても、学びうるわけではないか。
 しかし、どうであろうか。今引き起こされている情報技術の世界支配は、産業革命の延長線上で捉えきることが可能な問題であろうか。

日本哲学会総会の懇親会にて(2004年5月)         哲学者の友人たちと

           (左) 島崎隆さん:一橋大学教授
           (右) 岩佐茂さん:一橋大学教授

                             (撮影)古茂田宏さん:一橋大学教授

2004年5月22日 日本哲学会総会(開催南山大学・名古屋)懇親会場にて

『日本哲学会』……日本の哲学研究の発展と、研究者間の交流を活発化することを目的とする
全国規模の学会。


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