心ある親たちへ 明るい苦言  
 
                                     奈愚一言居士

        (1) 目くじら立てずにゆったりと育てましょう!

  戦後の生活が大変だったこともあって、一昔あるいはも少し前の親にとっては、自分たちができなかったお稽古事を子どもにさせるのがユメであり、目標でもありました。
  しかし、レッテルを貼り付けるように、今日はプール、明日はお絵かき、明後日はピアノ、ヴァイオリン、幼児教室でお受験の勉強・・・となると、どうもいけません。塾や学校や周囲の人の噂、噂が気になります。このように、胃を痛めながらも下世話な話にのめり込んでいく母親の姿は、やがてはTVのお受験ドラマとなって茶の間の話題になったものです。

  昔の親に限りません。特に、勉強最優先で、成績アップ。これが問題です。早いうちから、有名幼稚園、有名小学校のお受験と血道をあげて、塾に通わせたりすれば・・・。子どもはもちろんお母さんが大切。しかし、お母さんは「有名」がお大切。それがその子の幸せと思い込まされています。子どもは、嫌われまいと、それはもう必死で親の顔色をうかがいます。
  ある時、大久保の駅で見てしまいました。駅のベンチに座った母子なんですが、細かい字でぴっちり書き込まれた大学ノートを膝において、ママが目くじら立ててドリルの点検をしています。まだ足がベンチの下に届かないお嬢ちゃんに、出来なかったところを教え込もうとしています。娘の方はよく分からないし、余力が残ってませんから、泣きべそをかいて、すすり上げてます。「泣きたくなるのはママの方よ!」と言わんばかりの母親は、電車の来るのも眼中になく、子供の小さなお膝に広げてあるドリルの表面を鉛筆で突付いています。
  こんなふうにして子どもの心を押しつぶすなんて!子どもは伸び伸び育てることが大切。豊かで賢くあれ、何より健康であれ、という気持ちで子どもを見てあげて欲しいものだ。あの子は今頃どうしているだろうなぁ。


            
 (2) こんな姿に、だ〜れがした

  決して貧しい暮らしをしていたわけではないのに、マナーを知らない身勝手な若者。だらしのない恰好して、遊び以外はやる気も失せちゃったような顔。電車の中で、手鏡持ってぱっちりと付け睫毛なんかいじってるどこかのお姉さん。こうした場面に出くわすことが珍しくなくなりました。汗水垂らして礼儀正しく、真面目にバイトする若者たちも少なくないけれど、これから一体どうなるんでしょうか。
  最近はフリーターというより、ニートの問題でもちきりですが、来るところまで来てしまったという感が強まります。
  それはそうと、昼下がりのファミレスに腰をかけると、夢中で話をしている母親たちの一団が、店のどこかに陣取っています。まぁそれがファミレス、ということかと思うようになりましたが、しかしどうして恥も外聞もなく大声で話しまくることなどできるものなんでしょうか。女子高生たちも負けずに傍若無人。彼女らの使っている言葉の悪いこと、そして、汚いこと!加えて、一応レストランだというのに、叫んだり走り回ったりする幼児たち。親たちは自分たちの話に夢中で、まったく目も当てられません。
  いい加減な大人社会に扱われたがために、生活のルールや知恵を学びそこない、中・高生時代になると、もう回りのことなんかお構いなしになった子たち。目の前で、当たり構わずワーワーやってる女子高生が、高い偏差値であるはずの私大付属の生徒だったりします。行儀の悪さに耐え切れず、この前、思わず「見苦しい!」と叱り付けました。こういう場合は、叱ってやらないといけない。
  精神衛生上早く出るに越したことはないけれども、試験時期になると、たくさんのお客を待たせて、おしゃべりしながら平気で勉強なんかしてたりする。男子も同じであろうけれども。
  「あのー、この騒音たまりませんね。まるで動物園だ。これってお店が注意しないんだからいいっていうことなんでしょうか?」「トーゼンです。それにお金払ってるんだし、まだ飲み物残ってるんだから、そのケンリがあるわけ。」「店員さんも大変ですねぇ。ワケノワカランチャンの注意までしなけりゃならなくなったら、安月給でやってられません。」「ま、店の方針なんだからいいんじゃないですか、そんなめくじらたてなくったって。」「・・・・・・。」
  日本人のしている「勉強」は、どうも自分だけの利益を追求するものに成り下がってしまっている。つまり、
教材の中にどれほど尊い真理や価値があろうと、それはまぁ単なる点取りの対象でしかないだから、勉強ばかりさせていれば、子どもがマナーを心得なくなるのはあったり前だったりして。


   (3) あぁ、そうなってしまったらどうしよう!

  子どもらしく遊ばずに、お稽古ごとやお受験で育って、なんとか出世街道を歩んでいる親達がいます。そうした例を結構知っているけれど、子育てではつまずきますねぇ。反対に、出世街道から外れたというか、はじかれた親たちは、子どもにこそ、という成金的発想で、見栄っ張り人生にあこがれています。
  噂話や受験商戦に飲み込まれ、振り落とされないよう、必死の形相でお受験にひた走る親。み−んな、マニュアルを読んで、有名な「専門家」の意見に従って、涙ぐましい努力をしているのではないでしょうか。しかし、あんなに子どもを思ってやってきたつもりでも、尊重してあげたつもりでも、なかなか期待通りにはいかない。だんだん言葉が悪くなる、態度も悪くなる、なかなか帰ってこなくなる、話をしなくなる、あるいは、とっても元気がなくなる、学校へ行きたくなくなる・・・。
  そうなってしまったら、どうするんだろうか?
  勉強なら予備校の先生、でしょうか。では、精神的な障害が出たら?摂食障害とか・・・。
  情報を集めて分析し、解釈する専門家という存在があります。親に対してもどこに問題があるかを探ります。下した診断に誤診があってはならないけれども、さりとてもし効果がなくて解決に届かず、改善されない場合、これが結構多いんですが、そうなったらどうでしょう? 
  一つの症例として、場合によっては入院を勧めて隔離するということもあるわけです。
 (ゲーリークーパーってご存知ですか?一世を風靡した大スター。戦前の映画「オペラハット」に登場するその筋の権威の、クーパーに対する誰でも得心するしかないという誤った診断、今日にも通じるようで大変教訓的です。)
  僕の経験では、しかし入院に頼るようでは到底真の原因を突き止めることはできないな、と考えさせられたことが幾たびもありました。悲劇の一歩手前で助かった(そして助からなかった)ということも・・・。
  目先の処方箋ではどうしようもないんです。
音楽でいえば、楽譜通りにうまくこなして弾いたって、人の心を感動させる演奏はできない。それと同じことですよ。うまくいかなければ、ハイ入院。そこが問題の分かれ道。子どもの方では、先ず「見捨てられた」という思いに見舞われてしまいます。こうなるともう普通のお医者さんではどうにもなりません。
  やはり一対一の人間として対するのが鉄則であって、生活現場を訪れるくらいのことをしないとだめですね。教師は無論のこと、医者や法律家も、みんな、痛みや悲しみに心を動かす人間でないといけないのです。
  悲劇に見舞われたら、力まないで伸び伸びやるという原点にもどることです。
  子どもと生活できる今を大切にして前進いたしましょう。



       (4) 自信をもって遊ばせよう!

 
 そうなる前に・・・。時には厳しく向かって欲しいんですが、もちろん叱っていればいいというモンではありません。親の心に余裕がないのがいけないんです。食生活も不自然はいけません。それから、動物や人の身になって考える習慣をつけさせること。そう、本を肉声で上手に読んであげて下さい。たくさんお話を聞かせてあげて下さい。そして聞いてあげて下さい。会話をしましょう。あったかい愛情を伝えましょう。美しい言葉を大切にするよう導いてあげましょう。
  子どもの世界を無理に広げても意味がない。例えば、子どもを古書店街に連れてったって、日本の中だってよく知らないのに巴里やグアムに連れて行ってあげたって、物事をイージーに考える風にはなるかも知れないけれども、思考力や身の回りの経験がまだ乏しいのだから、あんまり期待はできない。え?期待なんかしてないっていう人も多いって?うーん、ま、第二次大戦の激戦地サイパンに行ってただ泳いできただけでもいい、どこが悪いっていう口ですなぁ、そういう御仁は。ナ〜ンにも分かってない。金持ちかも知らんけれど「アホ」といわれても仕方がないと思いますよ。
  ともかく、先人や大人が苦労の末積み上げてきた価値にイージーに触れさせていると、その子には本当の価値を発見する力が付いてきてくれません。やっぱり努力をさせなくちゃダメです。
  
子どもの身近な世界を大切にしてあげましょう。遊ばせてあげることが最重要。それから、食事の仕方やお片づけ、きちんとした姿勢でしっかりした字を書くようにしてあげることそういうことをしている親こそが本当の親、だと思います。努力する子は、環境で育ちます。

  以上、「明るい苦言」!を呈しました。


                     
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