日本語の表現力がとても貧弱になっていると思いませんか? 考えても見て下さい。英米圏では、シェークスピアを暗唱するのみならず、演じられ鑑賞され、もちろん読まれてもいるのです。ロシア人ならプーシキンの詩句の10位は暗唱しており、教養ある中国人が陶淵明や李白の詩句を暗唱していないなどということは考えられません。それにひきかえ、例えば今日の高校生や大学生には、幸田露伴の日本文が読めるか、いや坂口安吾だって、横光だって梶井だって、難渋きわまりない日本語になってしまっています。藤村や直哉、川端の文章の美しさを感じる基礎力が砕けてしまっているのです。そのくせ、学校では古文と古典文法で相変わらず生徒を苦しめている。それらが役に立たない。まことに嘆かわしい無責任な教育状況ではありませんか。100年前どころか、数十年前の日本文がもう読めなくなっているのです。この人達が教師や行政の指導者になっていく時代が来ているのです。やるべき課題は余りに多いのですが、先ずは私たちが、しっかり読書をし、思索を重ねて、少しでも次代にいい本を伝えていくことが大切だと思います。



読書と思索



哲学なき日本の教育への徹底的批判

ウィーン発の哲学
島崎隆著 (未来社2000年10月刊 2600円)

 世界は非常な勢いで目まぐるしく変化している。この数年を経過するだけでも、「今」は簡単に古い時代に化して、意味がなくなってしまうかも知れない。経済も技術も文化も、ひょっとしたら人間すらもが随分変わってしまっているかも知れない。
 そのことを多くの人間が感じており、難しい対応が求められていることも分かっている。それにもかかわらず、哲学を求めているようには見えない。否むしろ哲学を捨て去ろうとすらしている。講壇哲学が役に立たないというならそれもいい、確かに現実と格闘せず哲学することのおもしろさを感じさせない講義から何かが生まれるはずはないのだから。活き活きと哲学の思考法を学び、議論すべきなのだ。だが、哲学という語すら、知らんふりで学校と名のつく場から姿を消しつつあるのはどういう訳だ。本当の哲学や学問を知らない者たちが文教政策をリードし、教壇に立ち、指導してきたことの結果か。戦後社会に限ってみたとしても、その復興と繁栄がいかにも内容の乏しい馬車馬的利益追求に終始してきたということの証か。
 島崎隆氏の「ウィーン発の哲学」は、爽快な風を送って、読者が感じる迷妄日本の社会、教育、学問の暗雲を一掃してくれるだろう。何が足りない? それは哲学だよ。徹底してフィロゾフィーレンする姿勢なんだよ。それが足りないんだ、ということをこの書は強烈に分からせる。なぜなら、まさに西欧の代表的な精神と文化の深層世界を有するウィーンを舞台とし、哲学がどれほど大切であるのかということが、哲学者島崎氏の考え抜かれた知的精神となって、読者に容赦なく訴えかけられてくるからである。家族と共に悩み苦しみ、精魂を打ち込んで学んだオーストリア生活から得られた氏の訴えは、わが国には抜き差しならない問題そのものである。
 いい色合いの表紙に程よく掲げられたクリムトの「接吻」。どこから読み出してもいい。大きくT・U・Vに分かれる本書は、文化・教育・思想(哲学)の枠組みに対応する。
 アカデミックな関心の強い人には、「オーストリア哲学」の可能性、と題されたVの部分に少なからぬ刺激を受けるだろう。ドイツ哲学に抗するオーストリア哲学という図には余りなじみがなくても、ウィーン大学の正面玄関の右手階段を上がった踊り場に著者が発見した、ウィーン学団の大立者モーリッツ・シュリックの暗殺現場を示す金文字一つに出会うだけで、もうこれはすべて読まなければという気分にさせられてしまうのである。事実、ブレンターノを祖とする、ことばと概念に厳格なこの国の反カント的反体系的哲学の真骨頂は、例えばエーブナーやウィトゲンシュタインを通じて一層鮮明にされるし、大著「対話の哲学」の著者らしい、コミュニュケーション活動の意義に着目した論述は、オーストリア哲学に一貫する具体的で現実的な人間観を読み取らせてくれる。ここに盛り込まれたオーストリアの哲学と思想の営みに対する著者の問題提起の広がりは、著者自身の探求意欲を刺激してやまない。余談だが、シュタイナー教育で(名前だけは)日本にもよく知られるルドルフ・シュタイナーの記念碑がベルヴェデーレの公園の一角にあるという。それを知らされて、しまった見損なったと思ったものだが、そもそもドクターの思想を否定して全人的完成を目指したシュタイナーがオーストリアの出身であることに興味を持つことのなかった自分など、とんだ迂闊者に思えてしまったものだ。
 私達は、十数年前の臨教審前後から、日本はもう欧米に追いつき追い越した大先進国であるという意識を勝手に持つようになったようだ。欧米のことは、もうすっかり分かっているという気でいるようである。しかし、本当は深いところを何も見ず、分かってなどいはしないことを分かり始めなくてはいけないだろう。島崎氏は「あとがき」にて記す。「ヨーロッパに滞在する学者・研究者が、日常的なあれこれを積極的に経験せずに、書物に囲まれて机上の空論でヨーロッパを分析する態度を痛烈に批判」する犬養道子さんの「批判にすこしは応えたかった」と。その意味では、図版、写真、地図を盛り込んで視覚的に開かれた本書は、島崎氏の現地体験を十分リアルに感じさせてくれるし、あらためて西欧の歴史と精神の深みに(そして矛盾にも)思いを馳せさせてくれるのである。
 哲学なき知性の輝きはない。著者の知性は、宗教に向かっても(ここは無神論者も銘ずべし)、教育に向かっても、包括力豊かな仕方でその本質に迫る。小学校やギムナジウムの生活を通じ、哲学的探究の精神がいかに教育に貫かれ大切にされているのか、その事実を突きつけられてみると、著者ならずとも、いささか彼我の差に愕然たる気分にさせられてしまう筈である。
 時代は今「エパスティーミック・コミュニティ」(「知識共同体」と訳されているが)を発想し、機能させつつある。この語一つにも哲学は活きる。すなわち認識論と語源を一つにするエパスティーミックの語において、彼らが決して哲学を遠ざけて何かをしようとしたりしていないことが分かるのである。思えば「キューポラのある街」の中学三年生ジュンは、一人の五歩より十人それぞれの一歩という考え方に希望を託して、働きながら定時制で学ぶ道を選んだが、もちろん一人一人の知性を伸ばすことを軽視してはならない。民衆こそ、まさに一人が五歩を歩めるように、自覚しなければならない時代でなくてはならないのである。その意味で、島崎氏のこの書は、民衆の知的自覚を刺激する哲学の本質を示してやまない必読の書と言えよう。

T ウィーンの生活と文化を哲学する (オーストリアとウィーンの概観を知り、その社会と文化の抱える問題を興味深いエピソードを交えて考えていく) U オーストリアの教育と「哲学すること」 (徹底してフィロゾフィーレンせよ! 日本の教育との比較も興味深い) V 「オーストリア哲学」の可能性 (もうひとつの「ドイツ哲学」、さればその止揚の道も。)



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